1970年代、わたしはベイシティローラーズ(以下ローラーズ)が大好きだった。
最近、ふとしたことからローラーズを思い出し、インターネットで調べているうちに、当時を思い出しローラーズにまた夢中になってしまった。
そして、CD、DVD、写真集、本まで購入してしまった。
YouTubeでは画像は悪いが当時の映像も見ることができ、思わず画面に向かって絶叫したくなった。
あのころにタイムスリップして懐かしさでいっぱいになった。ローラーズは忘れられないわたしの青春の1ページだ。
中学生になって洋楽に目覚めたわたしは、番組名は忘れたが、ラジオでよく洋楽を聞いていた。
そのときに、ローラーズの「バイバイベイビー」を初めて聞いて、その歌声に取りつかれてしまった。
翌日、学校で友達にその話をするとみんな「そんなの知らない」と言われ、ちょっとショックを受けたのを覚えている。
わたしはどうしても「バイバイベイビー」のレコードがほしくて、自宅近くのレコード店にはないと思い、たぶん、池袋のレコード店に出向いて購入したと思う。
シングルレコードのジャケットには5人組の男性たち(今見たら少年だ)の写真と熱狂している女の子たちの写真が載っていた。
当時はもちろんインターネットなんかないし、全く彼らの情報がなかったのでレコードを買って初めて「ベイシティローラーズって5人組なんだ。誰が誰なんだろう?」と思いながら歌声にうっとりしながらレコードを聞いていた。
それからしばらくして、日本でローラーズの人気がどんどん上がっていった。
日本の「ミュージックライフ」などの雑誌でも情報が入るようになった。
わたしは少ないお小遣いから、彼らの出ている雑誌は必ず買った。
彼らが載っていた「16マガジン」という海外から輸入されている雑誌も必ず買った。英語で読めなかったが、彼らを見れるだけでうれしかったのだ。
わたしは自室にローラーズのポスターを貼りまくり、いつも彼らと一緒だった。
日本のみならず世界でも彼らの人気はすさまじかった。
彼らはスコットランド出身で彼らのステージ衣装には、スコットランドの民族衣装のタータンチェックがあしらわれていて(彼らの衣装はタータンギアと呼ばれた)ファンの少女たちは彼らと同じタータンギアを着て、熱狂していた。
彼らのコンサートでは失神者が何人も出ていた。最近になっていろいろ調べてみると、コンサート会場の前の道路には、あらかじめ数台の救急車やナースが待機していたようだ。
1976年12月 ローラーズ初来日。羽田空港は早朝にもかかわらずタータンギアに身を包んだ少女たちが数千人のファンが集まっていて、マスコミにもタータンハリケーンと大きく取り上げられたそうだ。
わたしはローラーズが来日したことはもちろん知っていたが、マスコミでそれだけ騒がれていたことは、ほとんどわたしの記憶にない。
当時の情報源はテレビしかなく、そのテレビすら親があまり見せてくれなかったせいだと思う。わたしの家にはテレビが1台しかなかったし。
わたしは親にローラーズのコンサートに行きたいと懇願したが、コンサートの開演時間が午後7時からということで、遅い時間から家を出ることを許してもらえず、ものすごく悔しい思いをしたことを今でも鮮明に覚えている。
1977年9月、1978年9月にもローラーズは来日しているが、いずれも私はコンサートに行くことを許されなかった。今でも一生の後悔だと思っている。
1975年ごろに日本で人気が出はじめたローラーズだったが、度重なるメンバーチェンジもあった。
当時は子供すぎて知りえなかったが、度重なるメンバーチェンジには大人の事情があったようだ。
1978年9月に来日していたローラーズ。その2か月後の11月になんとあっさりボーカルのレスリーがローラーズを脱退してしまった。
私たちファンにとっては驚き以外の何ものでもなかった。
「何で?何で?」とレスリーが一番好きだったわたしは奈落の底に落とされた気分だった。
ローラーズの1978年の来日前に発売されたLPレコード(現在はCD化されている)「風のストレンジャー」(これがレスリーが参加した最後のアルバム)は、ローラーズのイメージが変わるアルバムだったが、わたしはとても気に入っていた。
ローラーズもイメージを変えて、私もローラーズと一緒に成長していくのだという気持ちがあったからだ。
そう思った私はまだまだ子供だったのだ。音楽評論家で当時のローラーズの情報を送り続けてくれたチャッピーこと山本さゆりさんが「風のストレンジャー」を聞いてローラーズの終末が近いことを予感したと言ってたからだ。
ローラーズを身近に見ていただけに、同じローラーズファンであった彼女には痛いほど伝わってきたのだろう。
日本でローラーズの人気が頂点に達していたころには、イギリスではローラーズの人気は下降線をたどり、ローラーズは過去の人ととなりつつあったということだ。
現在のようにインターネットがなかった時代なので、海外と日本では時差があったのだ。
10代の少女も大人になってゆく。わたしも自分の進路などについて真剣に考えないといけないときにきていた。わたしの中でもローラーズは過去の人になっていった。
そして、ローラーズを忘れていった。
今CDを聞いてみると、レスリーは歌が上手だ。中学生のころはそこまで思わなかったけど…。というか、ミーハーすぎてそれどころじゃなかった(笑)
現在、レスリーは自身のバンドを作って、ボーカルとして世界を飛び回ってライブを行っている。2016年から3年連続で来日もしている。来年2月にも来日予定のようだ。
エリックはスコットランドで家族と静かに暮らしている。
ウッディは音楽活動と大学で教鞭を執っている。
デレクは長いことエジンバラの病院で看護師として働いていた。
イアンはロサンゼルスに住みエンターテイメントの会社を経営している(2014年現在)
パットは音楽業界からは離れて暮らしている(2014年現在)
アランは配管工として働いていたが、レスリーのツアーにも参加し、2016、2017年はレスリーとともに来日しているが、非常に残念なことだが、2018年7月2日に病気のため逝去した。享年70歳。
アランのご冥福をお祈りします。
近い将来、7人でローラーズを再結成する姿を望んでいたが、もうそれ叶わなくなってしまった。
わたしの心の中には、輝いていたころのローラーズが今でも生きている。
わたしにたくさんの夢を与えてくれて本当にありがとう。
私は一生ローラーズを愛し続ける。
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